across
邂逅



開け放たれた窓から夏の湿気を含んだ温い風が時折思い出したように吹き込む。呼吸をするかの様に膨らみ萎むカーテンとは裏腹に私は死んだようにベッドの上で丸まっている。丸まっていた。昨日も、一昨日も。日が昇り、日が沈む一日がじれったい程のろのろと過ぎた。けれどデジタル時計は刻々と正確に時を刻み、三ヶ月になろうとしている。あれから。




あの日釈放された私に”返された”のは漸く手に馴染んできたセブロではなく、一枚の薄っぺらい学生証だった。ほんの数年前に出たばかりの大学名が印字されたそれには、どこから引っ張ってきたのかそれらしく写った私の写真もしっかりと組み込まれていた。公安9課に所属し犯罪捜査にまい進していた私は「元より無かったこと」とされ、一度出た大学にもう一度入りなおす勤勉な学生として上書きされた。何のことは無い。私がそれなりに歳を食っている身だったなら、どこか都合のいい適当な企業に勤めていたことにされ即刻リストラなどというシナリオが用意されていたのだろう。生き残ったことへの褒美か、罰か。




携帯を握り締めていた。掌が痛い。ゆっくりと体を起こすと、鈍く頭痛がした。早熟の蝉の音と子供の笑い声、木の枝が風に揺れる様、9課で働いていた頃には自分の周りにそんなものがあることも忘れていた。いや、気に留める余裕がなかったんだと思う。毎日鼻先に好物をぶら下げられた馬のように走り回っていた。今の私にはそれがない。取り上げられてしまった人参は私の目の届かない場所で、保存されているのか、腐っているのか。辿るべき匂いも無くて、自分の置かれている状況すらメディアで大衆に報道されたハードニュースでしか拾えない日々。苛々、くらくら。




あの時、私は9課のオフィスを脱出してすぐに拘束された。失態だとは思わない。少佐がそう仕向けた節があったからだ。私を一人で行動させ、細かく脱出経路を指示した。今ならそれが私の身を案じてのことだったと確信できる。実際に拘束されたあとは平和すぎるほどだったのだから。それ以来彼らの声を聞くことはない。もちろん少佐の死亡という発表など鵜呑みにするはずが無かった。きっと一月も経てば彼女か、課長あたりが連絡を入れてくるはずだ。そう思って情報を掻き集めた。   人参は見付からなかった。




本棚の本を山積みにして、手にするのも久しぶりなブローニングを引っ張り出してきた。手入れなどしていないから使えるのかどうかはあやしいが、どうでもよかった。実際私自身がこの銃を何に使うのかわからないまま、ただ体がそう動くのに任せて家を出たのだ。撃つのか撃たないのか、何を撃つのか、殺すのか殺さないのか、曖昧なままでブローニングを隠し持つ私の、黙々と進む足だけは何処へ行くべきかをはっきりと決断していた。爆発の際にぶち抜かれた空洞のような階は張り巡らされた黄色のテープでキラキラと夕日を反射している。キラキラ、くらくら。私は唐突に、私の足がここを死に場所として選んだことを悟った。




「永ろうべきか、はたまた、永ろうべきにあらざるか、ここが思案のしどころぞ」




「……坪内逍遥訳、シェークスピア」
「イエス」



いつかしたやりとり、何処か達観した悟りきったような声はいつ聞いても変わらない。ただあの時と違うのは、私の動きを封じる意思が今の彼にはないというところだろう。振り向いたところで、彼には既に枷になるものはない。私はけれど振り向かないまま、ただ赤い街並みを眺めている。キラキラ、くらくら。手にしたブローニングが酷く軽い。



「逍遥は如何にも哲学的に訳したけど、あの言葉には本当はそんなに崇高な意味なんて無いんですよ」
「…生きてたの」
「僕は彼女に記憶を渡した時点で壇上から降りていた身ですから」
「変わりに壇上に上がった私たちは酷い目に遭った」
「そして自ら幕引きですか」
「……」
「貴女は、そうですね。文学者に向いている」



ぎゅうと手を握ると、軽かった銃が再び存在を復活させる。もう待つのは苦痛でしかない。かといって走り回って得た情報は他愛も無いもので、あれ程色濃かった9課での生活が霧散してしまったかのように手が届かないものになっていた。そして、連絡がないという事が一体どういう事なのか、私は一つの答えを自分の中に浮かび上がらせる。少佐は、



「僕はこの数ヶ月間、貴女の様子を窺ってきた」
「悪趣味」
「これしか取り得を持っていませんから」
「……」
「生きるべきか、死ぬべきか。それは個人の問題であって他人が答えを示唆すべきではない」
「……」
「でも僕は、貴女に死んで欲しくないと思ったんです」



一陣の風が吹き込んでテープがバタバタと揺れた。再び緩んでいた掌から拍子にブローニングが落ちて床に転がった。くらくら、夢々。もう9課は再建しないだろう。彼らは独房に繋がれて、少佐は…。 僕は彼女の義体の最期を見ました。 今度は脳内で彼の声が響く。ほうら、やっぱり、彼女は死んでしまった。もう誰も戻っては来ない、誰も。 彼女は      。 ……………少佐は、



「おい、バカなこと考えてたんじゃねぇだろうな」



突然聞きなれた、聞きたかった声の一つが外耳道を通って脳まで届いた。振り向く。 死すべき時を知らざるものは、生くべき時を知らず。 私の数メートル後ろにバトーが立っていた。転がった銃を手に取り、にやりと笑う。その後ろ、かつてはフロアの入り口だった場所に、彼は居た。 …ラスキン。 イエス。貴女の場合はその逆かな。 微笑む。それは笑い男のマークのような無邪気さはないけれど。



「バトー、さん」
「ぼーっとしてんなよ。ユーレイでも見たような面して」



聞きたい事が山ほどあって、絡まった毛糸のように固まって喉を通らない。今まで何処に居たのか、他のメンバーはどうしているのか、少佐は。彼の言ったことは、真実なのか。私の視線がバトーと彼の間をうろうろと行き来するのを、バトーは気付くこともなく私に話しかけ続ける。 白状すると、僕は貴女に少し興味を持っています。人間として。 ブローニングを弄りまわして、こりゃひでぇ状態だな、と言って笑う。そう、私にはセブロがあったからしばらく触ってすらいなかった。 また会いましょう、ここか、 焦点をずっと奥の街並みへ向けてそう言ってから、笑い男、いや、アオイという名の少年はとんとんと自分の米神あたりを指で叩いた。 こっちで。 そして背を向けて視界から消えた。文字通りの意味ではなく、壁の影の階段へ移動したのだろう。途端に喉の毛糸玉が解れて、詰まっていた言葉たちがぼろぼろと零れた。気を抜いたら力が抜けてこの場に崩れてしまいそうだった。



「少佐は…、少佐は?」
「安心しろ。あのメスゴリラなら義体の新規作成に大忙しってとこだ」



今度こそ本当に膝が崩れて、バトーに支えられてしまった。私がこの数ヶ月で出した答えは間違っていて、彼の言ったことは真実だった。笑いたいのに涙が出て、それが可笑しくて、私は今酷い顔をしているのだろう。彼は去り際にまた会いましょうといった。きっと会うだろう、私は彼と。それも遠くない未来に。一刻も早く少佐や他のメンバーに会いたいと願う半面、今すぐここを飛び出せば彼に追いつけるだろうかと考えている自分がその可能性を示唆している。くらくら、くらくら。そういえば彼と遇ったのはこれが初めてだったのだとぼんやりと思った。
2style.net