|
耳に宛がった受話器から聞こえたのは躁を患っているとしか思えない素っ頓狂な声だった。本屋がついに逃げられたからご愁傷様を言いに行くぞッご愁傷様会だッ!そんなような事を叫ぶだけ叫んでガチャリと電話は切れた。意味がわからない。わからないがそんなことはもう随分と前から慣れっこになってしまっていて、私はとりあえず手をつけた仕事を切り上げて外出の手はずを整えたのである。大方先ほどのとんちんかんな電話は、「これから呑むから至急中野へ来られたし」というような用件だったのだろう。否、来られたしはないか。早く来いッ、その辺が適切だろう。そうして私は寒空の下、一路中野は京極堂へと向かったのである。 「だから旅行に行っていると言っただろうに」 「本馬鹿亭主に愛想つかして駆け落ちしたんだなッ?千鶴ちゃんは器量がいいからお前なんかに勿体無いもの!」 「毎日そんな辛気臭え面拝まされたらなあ、逃げ出したくもならぁな」 「旦那に言われたくはないよ」 玄関先での応答も無く勝手知ったる何とやらで上がりこんだ座敷では既に馴染みの顔ぶれが酒盃を傾けて揃っていた。関先生だけは珍しく他用があって遅れてくるらしい。「よぉ遅かったじゃねえか。さっさと座れよ」「やあっと来たッ!遅かったじゃないか!仏頂面と下駄男では座が持たないんだからさっさと来るッ!」そうして私は到着早々、持参した肴を開く間もなくろくに乾いていない喉を酒で潤したのだった。しかし、旨い。 こんな酒席は時たま気紛れに開催される。 気紛れとは言わずもがな、其方におわす榎木津大明神様の気紛れのことである。 会場は決まって中野の古書店店主の家、この一室だ。 どうも私を含め一帯の人間は、集まるといったらこの一室と刷り込まれているようで誰一人として疑問を挟まず毎度こうしてきっちりと集まる 。家主も口先こそ不服を溢しているが内心既に諦めているものと見える。 なんだか。なんだか酷く居心地が良いのだ。勿論この部屋、この家そのものもそうなのだが、…。 うん。 各々好き勝手に酒を楽しんでいる傍若無人な探偵とヤクザ顔の刑事と万年不機嫌の古本屋、それに薄幸の小説家を眺めたり思い浮かべたりしながらぼんやりと思う。「おいコラ聞いてんのか、ぼけっとすんなって」 小突かれて漸く差し出された徳利から酒を戴く。 思ったついでに頭もぼんやりとしてきたようだ。 日本酒と座敷に似合ぬ洋酒とをごちゃ混ぜで呑んでいたからいつもより回りが早いのだろうか。 それでもやはり良い酒は良い酔い方をするようで、心地良い睡魔がちらちらと私を手招いているのが酷く気持ちが良かった。 遅くなってしまった。 行くと約束した時間をとうに一時間も過ぎている。 あの男に散々詰られるのが目に見える。仕事があったのだから仕方が無いというのはあの男には通じないのだ。 それが食うや食わずの小説家の久々の仕事だったとしても、である。 まあそんな事はもう既に慣れきってしまっているので今更嘆くことでもないのだけれど。勝手知ったるなんとやら、千鶴子さんは不在と聞いていたのでさっさと上がりこんで騒がしい一室へ向かう。 「アッ!来たなノロマの関!お前は時計の読み方も忘れたんだなッ全くの猿だッ!」 やっぱり開襖一番で詰られた。次いで京極と木場の旦那も加勢するのだから酷いものだ。 僕だってそこまで言われる所以はないのだ、急な呼び出だった上仕事だったのだし。 それでも一応遅刻を詫びて外套を脱いだ。 卓には何本もの洋酒と日本酒が置かれ、気の利いた肴も広げられていた。 空いた酒瓶もいくつかある。そこで漸く、この部屋に入った時から感じていた小さな違和感に気付いた。あの榎木津がいつもと比べて少々大人しいのである。もちろんぎゃあぎゃあと騒いではいるし意味不明なことを吐くし僕を執拗に詰るし、その辺はいつもと何ら変わり無い。ただ、そうか身振りが小さいのだ。胡坐を掻き両手を後ろで付いて身体を支えているという格好は、この男にしてはかなり行儀の良い座り方である。妙なことがあるものだなと思いつつ、空座へまわって酒に手を伸ばしたところで漸くその理由が知れた。 「あれ、君…?」 「シーッだ馬鹿猿!起きちゃうだろうがお前が五月蝿いから」 「え、榎さんの方が五月蝿いでしょうに」 「呑み始めて二時間もしないうちにこれさ。まったく、加減を知らない奴は困る」 「ケッ空盃に酒注いでたのは何処の誰だよ」 「酒席におけるごく一般的な振る舞いだろう?気の利かない旦那に代わってだよ」 「珍しいなぁ、割と酒には強い子だと思ってたんだけど」 榎さんの膝に頭を預けて君は眠っていた。とっくに成人した人間に向けるには似合わない言葉かもしれないが、何というか健やかな寝顔である。榎さんが猫とでも戯れるかのように彼女の頭をぽんぽんと叩いた。 「うん。めんこいめんこい」 幸せの最中に目を瞑ったようなそんな顔だ。 嫌に行儀の良い榎木津と眠りこける子供のような君というこの構図。何だか酷く微笑ましくて笑ってしまうじゃないか。 「それにしてもどんな夢を見てるんだろうなあこんな顔して」 「さあね、眠る子の酔夢はそこの偉大な榎木津様でもわからんだろうさ」 酔夢の色に 想いを馳せつ |